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宝積院 (ほうしゃくいん) |
![]() 岡山市阿津字玉房 児島霊場八十四番。 札所標柱が、灯篭に彫られているのは珍しい。厚学山伊勢寺宝積院は、薬師如来を本尊とする高野山真言宗の寺院で、慶長年中に火災に遭い、古文書を焼失、詳しい縁起はわからない。寺伝によると、もと阿津平山にあった寺を、現在の地に移したという。平山は現在耕地になっているが、中世までは集落のあったところ。寺は集落が海岸近い平地に移動するにともない現在の地に移ったものと考えられる。一五六七年(永禄十年)に堂宇を再建したが、一六一二年(慶長一七年)阿津村の大火により同寺も炎上。一六一四年(慶長十九年)当山の住僧秀海と宥海により、現在の地に再建す。 現在の建物は、本堂、庫裡、客殿など何れも江戸中期の改築、特に本堂は、入母屋造、屋本瓦葺、総円柱で装飾のすくない簡素質実と評すべき建物であるが、流れるような屋根の美しさには見とれる。 寺記に本尊薬師如来は、江戸時代になって火難を受けた本尊を修理し、脇侍の日光・月光両菩薩と十二神将とは新造して、新調の厨子を使用したことがわかる。 当寺の阿弥陀如来立像とその胎内経は、市指定の重要文化財である。阿弥陀如来立像は、像高八十セソチメートル、玉眼をはめた檜の寄木造りで、いわゆる安阿弥の三尺像である。製作技法、形態の特徴から、室町前期の造立と推定される。この像の胎内から、一二二八年(安貞二年)に西園寺実氏が書いた紺紙金泥経がでてきたことは注目される。経典の末尾に「安貞二年四月十日母服中書之右大将実氏」とあり、彼が母の冥福と極楽往生を祈願して写したものであることがわかる。阿弥陀如来立像はこの寺が廣幡八幡宮の社僧であったころ、八幡宮の本地仏としてまつられていたといわれる。安貞二年というと鎌倉時代北条氏が勢力を伸ばしかけたころである。この仏像が都からどういう経路でこのお宮の神体として迎えられたかわからないが、当時は児島東北端の津(港)には、上り下りの船が入ったであろうと考えられるので、旅人が病になって上陸し、ついにはこの地で亡くなったので、そういう人の霊を弔うため、仏像や経が奉納されたのではあるまいか。 現在の堂宇は、江戸中期の改造のため老朽化し、昭和五十一年より修築が始められた。 ( 「ふるさと小串」小串を考える会著 より ) |